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「洞爺丸台風」70年目の教訓 1430人が犠牲になった史上最悪の海難事故と町の8割が焼失した岩内大火 その後の復興と私たちの責任

2024年09月26日(木) 20時16分 更新

 70年前の9月26日、洞爺丸台風によって国内史上最悪の海難事故が起きた日です。
慰霊碑がある北海道北斗市では慰霊祭が行われました。

26日午前、北海道北斗市七重浜の慰霊碑で、洞爺丸台風による犠牲者を悼む慰霊祭が行われました。

最大瞬間風速57メートルという猛烈な風を伴った洞爺丸台風は、函館湾内に避難していた青函連絡船5隻が沈没、乗客・乗組員あわせて1430人が死亡・行方不明になっています。



中でも豪華客船「洞爺丸」は慰霊碑からわずか700メートル沖に沈没、1155人の犠牲者を出しました。



遺族は…
「こういう大きな事故があったことを皆さんに知ってもらって」
「洞爺丸みたいな被害を繰り返さないように」

生存者や遺族の高齢化が進み事故をどうやって語り継いでいくか、課題になっています。

 
 洞爺丸台風は、海難事故だけではなく、岩内町で住宅の8割を焼く大火も引き起こしました。
70年の時を経て、今なお語り継ぐものは何か考えます。

北海道函館市に住む、武山和雄(たけやま かずお)さん87歳。

70年前、洞爺丸台風で、十勝丸の乗組員だった父、常雄(つねお)さんを亡くしました。

武山和雄さん(87)
「とにかく子ぼんのうで、息子自慢」

当時、武山さんは大学受験を控えた高校3年生。

大黒柱を失い、進学してジャーナリストになる夢を諦めました。



武山和雄さん(87)
「(遺体と対面し)ぼう然として涙一つでなかった。泣いたのは葬式のときだった。絶望というか、わが人生は終わりと思った。夢も希望もない」

国鉄は遺族補償として武山さんを連絡船の乗組員に採用しました。

武山和雄さん(87)
「みじめだったのは同期は大学行くやつは行っている。連絡船に乗って帰ってくる。私も、ああなるはずだったと思ったら恨んだ」

生存した乗組員たちの体験を国鉄がまとめた「台風との斗い(たたかい)」。

台風の翌年に約500部作られ、遺族などに渡されました。2011年に本を復刻させた高橋さんです。



語り継ぐ青函連絡船の会 高橋摂事務局長
「お父さん、叔父さんはこんなふうに台風と戦った。船を沈めないように頑張った記録として残しておくという趣旨」

当時、気象台は台風は時速110キロで北東に進行、午後5時頃には渡島半島を横切ると予報します。

そして、予報を裏付けるように港には夕日が…。

「台風の目に入った」誰しもがそう思い、洞爺丸も出航します。

しかし、出航直後に天候が悪化、実際の台風は渡島半島の手前で速度を落とし、洞爺丸を直撃したのです。

洞爺丸は港の外に錨をおろし、天候の回復を待ちますが波に押され、たまたま海中にできた砂山に座礁。

「台風との斗い」では、こう記録されています。

『「事務長へ伝令。本船は七重浜沖に座礁した。これ以上動揺もないと思われるから、救助船のくるまで心配しないで待つよう」旅客に伝えるように』

安堵したのも束の間、座礁から19分後には…。

当時のHBCラジオニュースの音声(1954年)
「洞爺丸がその痛々しい大きな赤い船腹を見せております」

海難審判では船長の天候判断を巡り責任が追及されましたが、それでは教訓にならないと高橋さんは指摘します。

語り継ぐ青函連絡船の会 高橋摂事務局長
「船長だけを追及して思考が停止し、終わってしまうのはよろしくない。教訓とするためには、ミスが起きないようにミスを犯しても助かるように考えていく」

そして、洞爺丸台風は次の標的を定めるかのように、北へ進んでいきます。

8日、北海道後志地方の岩内町で行われた消防演習です。

岩内町において火災への備えは特別な意味を持ちます。

70年前の9月26日、マチの8割が消失した岩内大火が起きました。

火の手が広がったのは洞爺丸台風が原因です。

阿久津英一(あくつ えいいち)さんと丸山誠一(まるやま せいいち)さん。

当時 中学校1年 丸山誠一さん(82)
「(家にも)火の粉が飛んできて、煙が飛んできて、これは逃げなきゃダメだ」

当時 高校1年 阿久津英一さん(86)
「突然電気が消えて、『火事だ』。家の中の物を運んで蔵に行った。あの蔵がそうなんですけどね」

阿久津さんと丸山さんが逃げ込んだ蔵が今も残っています。中には約80人の避難者。



当時 中学校1年 丸山誠一さん(82)
「窓から見たら火の海。すごく印象深いし恐怖心は、いまでも忘れられない」

蔵の中では、ある工夫によって全員の命が助かりました。



当時 高校1年 阿久津英一さん(86)
「換気口を閉めて、みそを詰めた。家の中の戸にみんな入ったあと、みそで全部固めて。みそは焼けても乾かない」

みそで窓を塞ぎ、煙や炎が入ってくるのを防いだのです。

1954年、火災の翌日に撮影された映像には、ほとんどの家屋が焼け落ち、焼け跡の中にある火種が、なおも燃えているようすが記録されています。

町全体では1万7223人が被災、死者・行方不明者が38人という大きな被害が出ました。

町の郷土館では岩内大火を伝える品々が展示されています。

岩内大火から町は、災害に強い町づくりを掲げて、わずか3年で復興。

この奇跡は「岩内魂」と呼ばれています。



岩内町郷土館 鈴木雅紀館長(69)
「(岩内大火を)知っている人もどんどんいなくなって、最近になって一部の人から、それでいいのかなと」

岩内大火は町の被災の歴史であり、復興の誇り…。

岩内町は、今年60年ぶりに式典を開催しました。

約350人が集まり、被災者や殉職した消防団員への黙とうや献花を行いました。



岩内町 木村清彦町長(62)
「みんなで『なにくそ』と頑張って、はねのける雰囲気がこの町の住民の持っているパワー。それを総称して『岩内魂』と言っている」

70年前に起きた悲しい災害。

それは、先人たちが必死に生きようとした証であり、今の暮らしはその犠牲と努力の上にある事を忘れてはいけません。


 岩内町は、火災から復興した際に、全国各地から救援物資などの支援を受けたということで、いまでも、例えば2011年の東日本大震災、それから今年の能登半島沖地震などにも、いろんな救援物資を支援したり、町営住宅を提供したりしているということです。

一方、洞爺丸台風から33年後、1988年、青函トンネルが完成しました。トンネルではいま、新幹線が走っています。私たちの暮しを便利にしていますけれども、もとをたどれば、この洞爺丸台風がきっかけだったといえます。

昭和の出来事は、年々歴史の一部になっていくので、しっかりとこういうことを改めて次の世代に引き継いでいかないといけないなと、将来に向けた備えをそこから学んでいかないといけないなと、今を生きている私たちの責任だと思います。